供養塔・石塔

4 reviews

Shimohonnojimaecho, Nakagyo Ward, Kyoto, 604-8006, Japan

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供養塔・石塔 is a Cemetery located at Shimohonnojimaecho, Nakagyo Ward, Kyoto, 604-8006, Japan. It has received 4 reviews with an average rating of 3.8 stars.

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Frequently Asked Questions

  • The address of 供養塔・石塔: Shimohonnojimaecho, Nakagyo Ward, Kyoto, 604-8006, Japan

  • 供養塔・石塔 has 3.8 stars from 4 reviews

  • Cemetery

  • "九代将軍 徳川家重夫人の供養塔    (一番手前)下段 夫人は伏見宮邦永親王の姫宮(ひめみや)で、十七歳のとき、江戸の徳川家重のもとに嫁した。江戸城の西の丸に住んだので西の丸御簾中(ごれんちゅう)と呼ばれたが、わずか二年後の享保十八年(1733)十月三日早産のあと急逝した。遺骸は寛永寺に葬られたが姫宮が平素から信仰されていた当寺に遺髪と爪が送られいまこの石塔下に納められている。 君婦大姉、「君婦」とは王の后、ここでは将軍夫人の意。 菅中納言局庸子(かんちゅうなごんのつぼねようこ)の石碑 (二番目中)中段 庸子は五条中納言為庸の娘で第百十三代霊元天皇に女官として仕えた。五条家の本姓が菅氏であったことから、宮中では菅中納言局と呼ばれた。康子はやがて霊元天皇の寵愛を受け、幾人かの皇子と皇女を生んだ。妙法院門跡の堯延法親王や大覚寺門跡の性応法親王は、庸子が生んだ皇子である。石塔の「清光院殿浄心信敬尊儀」の刻銘は康子の戒名である。 島津義久(出家名 龍伯公)夫人の石塔     (一番奥)上段 島津義久は戦国末期の島津家の当主で、薩摩、大隅、日向を領し、北進して一時期は九州全域を制したが、天正十五年(1587)豊臣秀吉の征伐を受け敗れ、入道して龍伯と号し秀吉に臣従した。石塔に刻まれた「円心院殿妙蓮寺幽儀」は夫人の戒名、また死去の日は石塔左側面の刻銘で元亀三年(1572)十二月二十三日であることが知れる。当時の義久の権勢を偲ばせて、この石塔はいかにも雄壮、華麗である。 本能寺 (現地案内版より) The memorial tower for the wife of the ninth shogun Tokugawa Ieshige (frontmost) lower row Her wife was Himemiya, Prince Fushiminomiya Kuninaga, and when she was seventeen she married Ieshige Tokugawa of Edo"

    "本能寺の変戦没者合祀墓の北には、[九代将軍徳川家重夫人の供養塔][菅中納言局庸子の石塔][島津義久(出家名龍伯公)夫人の石塔]があります。 [戦国時代]と呼ばれるように、1500年代から1600年代の日本は戦乱の時代で、戦国武将や戦国大名として生きた人々、家臣として生きた人々、兵として戦った人々が内戦や動乱で命を落としていきました。天正10年6月2日(1582年6月21日)に起きた本能寺の変のように、戦国武将や戦国大名として生きた人々の繁栄と衰退の歴史として、主君とともに戦乱の時代を命がけで生きた人々の物語として、たびたび取り上げられてきました。 しかし、戦乱の時代を命がけで生きた人たちだけでなく、同じ時代の中で必死に生きた名もなき人たちの人生があったことを忘れてはいけません。こちらの供養塔と石塔は、日本史ではほとんど語られることのない女性たちが命がけで生きていた記憶を伝えている場所でございます。 【九代将軍徳川家重夫人の供養塔】というのは、旧皇族の一つである伏見宮家の第14代当主である邦永親王(くにながしんのう)の第四王女(6人目の末子)として生まれ、江戸幕府の第9代将軍である徳川家重の御廉中(ごれんちゅう)となった比宮増子(なみのみや ますこ)のこと(1711年~1733年)。比宮増子(※)こと證明院(しょうみょういん)は早産の後に体調を崩し、22歳で亡くなっている。墓所は東京都台東区の寛永寺にあるが、本能寺との縁から爪と遺髪が送られ、供養塔に納められている。 ※「比宮増子」ではなく「比宮培子」と表記するものもある(読みは同じ)。 【菅中納言局庸子の石塔】というのは、天皇に仕える公家の一つであった五条家(五条中納言家)の第14代当主である五条為庸(ごじょう ためのぶ)の娘で、霊元天皇こと第112代天皇である高貴宮 識仁(あてのみや さとひと)の女官として仕えた五条庸子(ごじょう ようこ)のこと(1660年~1683年)。霊元天皇との間に三人の皇子を出産したものの、内二人は早世となり、自身も23歳の若さで亡くなった。三人の皇子の一人である周慶親王(ちかよししんのう)は9歳で京都市東山区にある妙法院に入り、後に出家して尭延入道親王(ぎょうえんにゅうどうしんのう)となっている。 ※五条家は菅原道真の血筋である菅原氏(すがわらうじ)を祖先としていることから、本来の菅原姓を用いて"菅原庸子"とも記される。 【島津義久(出家名龍伯公)夫人の石塔】とは、天文12年(1543年)に南九州の種子島に伝来した鉄砲の国産化を進めた種子島時堯(たねがしま ときたか)の次女で、妙蓮夫人こと円信院殿のこと(?~1573年)。九州のほぼ全域を領地とした後、豊臣秀吉の九州平定で降伏し、出家して龍伯となった島津義久の継室。義久との間に島津新城(しまづ しんじょう)と島津亀寿(しまづ かめじゅ)という二人の娘を出産した後、元亀3年(1573年)に亡くなっている。 ※本能寺が種子島で布教活動をしていた縁で、妙蓮夫人の父方の血筋である種子島氏は本能寺の檀越(だんおつ)であったことから、鉄砲などの取引を通じて深いつながりがあった。また、妙蓮夫人の母方は島津氏の出身で(後に時堯と離婚)、島津義久は甥にあたることから、従兄弟同士の結婚だったとも言われている。 まず、水子供養や安産祈願の由来、生みの苦しみや子宝という言葉のゆえんを感じられるかもしれません。結婚においては、政略結婚やお見合い結婚のように、本人同士の意向よりも互いの家の思惑に左右されることが多い時代だったと言われていて、妊娠や出産においては、母親が早産の末に体調をくずして亡くなったり、産まれた子供が早世したりすることも多く、母親が20代の若さで亡くなったり、母親や兄弟姉妹の存在を知らぬまま育ったりすることもあったといいます。日本史では語られない人々の営みを感じられると同時に、戦乱だけでなく結婚やお産も大変な時代だったことが分かります。 是非訪ねていただきたい場所です。 ※『信長公廟』に掲載している口コミの内容の一部を再構成して投稿しています。
    予約をおすすめしますか?
    いいえ"

    "本能寺供養塔・石塔。(202209)【所要時間15分】 ※古い供養塔です。 9代将軍 徳川家重夫人の供養塔(一番目、手前) 菅中納言局庸子(かんちゅうなごんつぼねようこ)の石塔(二番目、中段) 島津義久夫人の石碑(一番奥、 上段) 駐車場は境内に駐車できそう。 ※客観的に普通のものが『最高』の評価になりませんので悪しからず。"

    "本能寺の本殿の裏側にあるのが「九代将軍 徳川家重夫人の供養」「塔菅中納言局庸子」「島津義久(出家名 龍伯公)夫人の石塔」の供養塔・石塔になります。供養塔・石塔の脇には説明書きがあります。"

Reviews

  • Hiroshi Kyoto

九代将軍 徳川家重夫人の供養塔    (一番手前)下段 夫人は伏見宮邦永親王の姫宮(ひめみや)で、十七歳のとき、江戸の徳川家重のもとに嫁した。江戸城の西の丸に住んだので西の丸御簾中(ごれんちゅう)と呼ばれたが、わずか二年後の享保十八年(1733)十月三日早産のあと急逝した。遺骸は寛永寺に葬られたが姫宮が平素から信仰されていた当寺に遺髪と爪が送られいまこの石塔下に納められている。 君婦大姉、「君婦」とは王の后、ここでは将軍夫人の意。 菅中納言局庸子(かんちゅうなごんのつぼねようこ)の石碑 (二番目中)中段 庸子は五条中納言為庸の娘で第百十三代霊元天皇に女官として仕えた。五条家の本姓が菅氏であったことから、宮中では菅中納言局と呼ばれた。康子はやがて霊元天皇の寵愛を受け、幾人かの皇子と皇女を生んだ。妙法院門跡の堯延法親王や大覚寺門跡の性応法親王は、庸子が生んだ皇子である。石塔の「清光院殿浄心信敬尊儀」の刻銘は康子の戒名である。 島津義久(出家名 龍伯公)夫人の石塔     (一番奥)上段 島津義久は戦国末期の島津家の当主で、薩摩、大隅、日向を領し、北進して一時期は九州全域を制したが、天正十五年(1587)豊臣秀吉の征伐を受け敗れ、入道して龍伯と号し秀吉に臣従した。石塔に刻まれた「円心院殿妙蓮寺幽儀」は夫人の戒名、また死去の日は石塔左側面の刻銘で元亀三年(1572)十二月二十三日であることが知れる。当時の義久の権勢を偲ばせて、この石塔はいかにも雄壮、華麗である。 本能寺 (現地案内版より) The memorial tower for the wife of the ninth shogun Tokugawa Ieshige (frontmost) lower row Her wife was Himemiya, Prince Fushiminomiya Kuninaga, and when she was seventeen she married Ieshige Tokugawa of Edo. Because she lived in the Nishinomaru of Edo Castle, she was called Nishinomaru Gorenchu, but she died suddenly on October 3, 1733, just two years after giving birth prematurely. did. Her remains were buried at Kan'ei-ji Temple, but her hair and nails were sent to this temple where Himemiya had always been worshiped, and are now kept under this stone pagoda. "Kimfu Dai-nee", "Kimfu" means the queen of the king, here it means the wife of the shogun. Kan Chunagon no Tsubone Yoko's stone monument (second middle) middle row Yoko was the daughter of Gojo Chunagon Tametsune and served the 113th Emperor Reigen as a court lady. She was called Suga Chunagon no tsubone in the imperial court because her original surname of the Gojo family was the Suga clan. Yasuko eventually won the favor of Emperor Reigen, and she gave birth to several princes and princesses. Cloistered Imperial Prince Goen of Myoho-in Monzeki and Shooho Imperial Prince of Daikaku-ji Temple were sons born to Yoko. The inscription on the stone pagoda, ``Seikoinden Joshin Shinkeisongi,'' is Yasuko's posthumous posthumous name. Yoshihisa Shimazu (name of priest Ryuhaku) wife's stone pagoda (most back) upper row Yoshihisa Shimazu was the head of the Shimazu clan at the end of the Sengoku period. He ruled Satsuma, Osumi, and Hyuga, advanced northward, and for a time controlled all of Kyushu. He called himself Ryuhaku and became a vassal of Hideyoshi. Enshininden Myorenji Yugi engraved on the stone pagoda is the wife's posthumous posthumous name. I know something. Reminiscent of the power of Yoshihisa at that time, this stone pagoda is truly majestic and splendid. Honnoji (From the local guide version)

  • kazunori kakizawa

本能寺の変戦没者合祀墓の北には、[九代将軍徳川家重夫人の供養塔][菅中納言局庸子の石塔][島津義久(出家名龍伯公)夫人の石塔]があります。 [戦国時代]と呼ばれるように、1500年代から1600年代の日本は戦乱の時代で、戦国武将や戦国大名として生きた人々、家臣として生きた人々、兵として戦った人々が内戦や動乱で命を落としていきました。天正10年6月2日(1582年6月21日)に起きた本能寺の変のように、戦国武将や戦国大名として生きた人々の繁栄と衰退の歴史として、主君とともに戦乱の時代を命がけで生きた人々の物語として、たびたび取り上げられてきました。 しかし、戦乱の時代を命がけで生きた人たちだけでなく、同じ時代の中で必死に生きた名もなき人たちの人生があったことを忘れてはいけません。こちらの供養塔と石塔は、日本史ではほとんど語られることのない女性たちが命がけで生きていた記憶を伝えている場所でございます。 【九代将軍徳川家重夫人の供養塔】というのは、旧皇族の一つである伏見宮家の第14代当主である邦永親王(くにながしんのう)の第四王女(6人目の末子)として生まれ、江戸幕府の第9代将軍である徳川家重の御廉中(ごれんちゅう)となった比宮増子(なみのみや ますこ)のこと(1711年~1733年)。比宮増子(※)こと證明院(しょうみょういん)は早産の後に体調を崩し、22歳で亡くなっている。墓所は東京都台東区の寛永寺にあるが、本能寺との縁から爪と遺髪が送られ、供養塔に納められている。 ※「比宮増子」ではなく「比宮培子」と表記するものもある(読みは同じ)。 【菅中納言局庸子の石塔】というのは、天皇に仕える公家の一つであった五条家(五条中納言家)の第14代当主である五条為庸(ごじょう ためのぶ)の娘で、霊元天皇こと第112代天皇である高貴宮 識仁(あてのみや さとひと)の女官として仕えた五条庸子(ごじょう ようこ)のこと(1660年~1683年)。霊元天皇との間に三人の皇子を出産したものの、内二人は早世となり、自身も23歳の若さで亡くなった。三人の皇子の一人である周慶親王(ちかよししんのう)は9歳で京都市東山区にある妙法院に入り、後に出家して尭延入道親王(ぎょうえんにゅうどうしんのう)となっている。 ※五条家は菅原道真の血筋である菅原氏(すがわらうじ)を祖先としていることから、本来の菅原姓を用いて"菅原庸子"とも記される。 【島津義久(出家名龍伯公)夫人の石塔】とは、天文12年(1543年)に南九州の種子島に伝来した鉄砲の国産化を進めた種子島時堯(たねがしま ときたか)の次女で、妙蓮夫人こと円信院殿のこと(?~1573年)。九州のほぼ全域を領地とした後、豊臣秀吉の九州平定で降伏し、出家して龍伯となった島津義久の継室。義久との間に島津新城(しまづ しんじょう)と島津亀寿(しまづ かめじゅ)という二人の娘を出産した後、元亀3年(1573年)に亡くなっている。 ※本能寺が種子島で布教活動をしていた縁で、妙蓮夫人の父方の血筋である種子島氏は本能寺の檀越(だんおつ)であったことから、鉄砲などの取引を通じて深いつながりがあった。また、妙蓮夫人の母方は島津氏の出身で(後に時堯と離婚)、島津義久は甥にあたることから、従兄弟同士の結婚だったとも言われている。 まず、水子供養や安産祈願の由来、生みの苦しみや子宝という言葉のゆえんを感じられるかもしれません。結婚においては、政略結婚やお見合い結婚のように、本人同士の意向よりも互いの家の思惑に左右されることが多い時代だったと言われていて、妊娠や出産においては、母親が早産の末に体調をくずして亡くなったり、産まれた子供が早世したりすることも多く、母親が20代の若さで亡くなったり、母親や兄弟姉妹の存在を知らぬまま育ったりすることもあったといいます。日本史では語られない人々の営みを感じられると同時に、戦乱だけでなく結婚やお産も大変な時代だったことが分かります。 是非訪ねていただきたい場所です。 ※『信長公廟』に掲載している口コミの内容の一部を再構成して投稿しています。
予約をおすすめしますか?
いいえ

  • 330 cobra

本能寺供養塔・石塔。(202209)【所要時間15分】 ※古い供養塔です。 9代将軍 徳川家重夫人の供養塔(一番目、手前) 菅中納言局庸子(かんちゅうなごんつぼねようこ)の石塔(二番目、中段) 島津義久夫人の石碑(一番奥、 上段) 駐車場は境内に駐車できそう。 ※客観的に普通のものが『最高』の評価になりませんので悪しからず。

  • 白ベイ

本能寺の本殿の裏側にあるのが「九代将軍 徳川家重夫人の供養」「塔菅中納言局庸子」「島津義久(出家名 龍伯公)夫人の石塔」の供養塔・石塔になります。供養塔・石塔の脇には説明書きがあります。

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